「悔い改め」と聞くと、私たちはどんなイメージをもつでしょうか。なんだかうつむいて、自分の罪を悔いるという、少し暗いイメージがあるかもしれません。しかし新約聖書において、普通「回心」、「悔い改め」と訳される「メタノイア」という言葉の原意は、必ずしも「悪い事を悔いて改める」という倫理的な意味ではありません。むしろ、自分勝手に生きてきた歩みから神の方向に「方向転換する」という意味で理解したほうがよいと言われます。そう考えると、キリスト教会が宣べ伝えている「悔い改め」は、新しい生き方への「方向転換」であり、むしろ明るい希望に満ち溢れている出来事であるとも言えます。
私たちは、立ち止まれないような忙しさの中で日常を生きているのかもしれません。なんだかおかしいと気付きながらも立ち止まれない、聞かなければいけない声があるはずなのに、語らなきゃいけない言葉があるはずなのに、目に見えない何かにくるまれて、急がされるように時間と共に流されていく日々。
教会は、そんな日常の中で貴重な「立ち止まれる場所」です。心を静め、立ち止まって自分の歩みを振り返り、隣人の命に思いをはせ、神の方向に「方向転換」できる場所。しかもそれは努力や根性で成し遂げられるものではなく、様々な出来事との出会い、様々な命との出会い、そしてイエス・キリストとの出会いの中で心が開かれ、その心の窓に神さまからの風が、ふーっと吹きぬけたとき、成し遂げられる方向転換です。
そのような、神の恵みによって起こる方向転換が、今日から始まる一週間の歩みの中で起こりますように。私たちが勇気をもって立ち止まり、本当の自分らしさを獲得し、他者の命を喜び、イエス・キリストと共に生きる豊かさを深く知る者となりますように、心からお祈りします。