ただ「上から」の恵みによって  加藤 誠

 「この神殿をぶっ壊せ。俺は三日でそれを起こす」(ヨハネ2:19私訳)。
 この主イエスの厳しい言葉は、今日これを聞く私たちにも向けられています。
 毎週日曜日、わたしは何を祈り求めて、礼拝に集っているでしょうか。今のわたしが壊されない限りは、新しく礼拝は起こされていかないし、教会は建てられていきません。
 「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」(ヨハネ3:3岩波訳)。
 ここで「上から」と訳されている言葉は、新共同訳や口語訳で「新しく」「新たに」と訳されている言葉ですが、ヨハネ福音書の他の箇所(3:31、19:11など)では「上から」と訳されていて、「神から」「霊から」と同義で用いられています。ニコデモは「新たに生まれるなんて人間には不可能だ」と答えました。そのとおり。肉なる人間が自力で「新たに生まれる」ことはできません。それはただ「上から/神から/霊から」の可能になる恵みです。
使徒パウロは「キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きる」(ローマ6:8)、「(十字架の)キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者」(第二コリント5:17)と語りました。つまり「イエス・キリストを十字架につけたのは、他でもないこの私」であり、「私こそ十字架に死ぬべき者」という罪責告白に立つところに「新生」「新しい創造」が起こされていくのです。
一度イエス・キリストの手足に打ち込んでしまった十字架の釘あとを、まるでそんな背信がなかったかのようにきれいに消すことは出来ません。主イエスの傷あとは消えません。しかし、です。その釘あとを通して、神の恵みが注がれていく。その十字架の下に立つとき、神の国の新しい命に起こされていく。ここに福音があります。