創世記四章に出てくるカインの姿に、わたしは自分自身の姿が重なります。カインの罪は、わたしたちの多くが抱えている罪ではないでしょうか。
カインは神から「どうして顔を伏せるのか。正しいなら顔を上げられるはずではないか。罪がお前の戸口で待ち伏せている。お前はそれを支配せねばならない」と忠告されたにもかかわらず、弟を殺害します。カインはこの間、神に対しても弟アベルに対しても、黙ったままです(野原に誘っただけ)。つまり口をききたくない。対話の否定です。そして暴力に訴えていく。
このことから「暴力」とは「対話の否定」であり、「自分勝手な正義の一方的な行使」であることが示されます。
一方で、神がカインに求められた「正しさ」とはどういうものでしょうか。わたしは「神と向かい合い、対話的に生きること」だと考えます。なぜなら神はわたしたちを「神と対話しながら、神と協働する者」としてお造りになったからです。カインの怒りは、神が弟の献げ物を受け入れたのに、自分の献げ物を受け入れてくれなかったことに対する怒りでした。であれば、カインは神に問えばよかったのです。「なぜですか?」と。その答えはすぐ示されないとしても、ヨブのように「なぜですか?」と神に問い続けるべきだった。神に食らいつくべき場面で弟に怒りをぶつけ、弟との対話をも否定し、暴力に訴えていく。それは神の前に「正しくない」ことでした。
そんなカインを神は厳しく断罪しながらも、彼の命を取り上げないばかりか、彼が復讐にあわないようにとカインにしるしをつけられます。つまり、憎しみによる暴力の連鎖を絶つことで、神が祈り願っておられる平和がどういうものであるかを示されたのでした。