弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。…イエスは「まだ悟らないのか」と言われた。(マルコ8・16、21)
日常にたくさんの勘違いがあって、笑いがうまれます。パンを忘れた弟子たちは、その乗船前の準備不足を戒められたと勘違いしました。“パン違い”でした。気づいた主イエスは、船の上で大笑い?しています。こんな日常の笑い話が懐かしくも回想され、福音書の中に残されました。なぜこんな“勘違い”エピソードをわざわざ限られた紙面に残したのでしょう。きっと、マルコ自身や共同体に必要な希望が、その中に秘められていたのだと思います。
福音書は、読む先が分からぬミステリー小説ではありません。主イエスの十字架と復活を経験した者たちが、その希望を知らされつつの回想録です。ならば「まだ悟らないのか」との最後の言葉も主イエスの叱責ではなく、励ましと響いたことでしょう。四千人の給食の空腹も「大丈夫だったでしょ」。五千人のその時も「だって、大丈夫だったでしょ」。そう主イエスは言われました。
さらに福音書を読んだマルコの共同体が直面した現実的な課題がありました。ユダヤ教との決定的分離とそれに伴っての異端視、迫害で、先見えぬ心細さを覚える中で、あらためて復活の出来事を思い起こし、この船上の勘違いを振り返っているのです。
「まだ、分からないのか、覚えていないのか…悟らないのか」という耳に残る言葉は、十分な労苦があるその日を支えるものでした。それは、復活の主イエスから届く、神が語られる「大丈夫だよ」とのみ言葉でした。