「主の言葉が再びヨナに臨んだ」(ヨナ書3・1)。
「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」(同3・3)。
主なる神の言葉が「再び」ヨナに臨んだとき、ヨナは「直ちに」従いました。神は「再び」のチャンスを用意してくださっていたのです。ヨナの最初の挫折は、彼が「神の慈愛と峻厳」を身体ごと体験し、新たに創りなおされるために必要なプロセスであったのでした。
ただし、ヨナがその「根っこ」から新たにされた訳ではないことが、このあと露見していきます。ここがヨナ書の面白いところです。人間は根本からはなかなか変わらない。いくら神の深い慈愛に触れても、「ひねくれているところ」、「文句が一言多いところ」等々、ヨナが生まれながら抱えている性質は変わらない。立派な「聖人」にはなれないのです。けれども、そのヨナの弱さを包みこんで、ご自分の働きに用いられる神の懐の大きさを知らされます。
異教徒の地ニネベに遣わされたヨナは、「ニネベの町は滅びる」と叫びながら主なる神の言葉を語ります。ヨナは内心、人びとからの反発を覚悟し、「俺の言葉に聴く者などいるわけがない」と考えていたようですが、その予想を大きく裏切る形で、ニネベの人々は神の前に悔い改めたのでした。
「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。」(イザヤ55・9)。
ヨナ書を読んでいると、わたしたちはなんと小さなものさしで神を語り、人を判断し、裁いてしまっているかを知らされるのです。