「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハネ20・15)。マグダラのマリアは彼女が目撃した一連の出来事の前に言葉を失っていました。
「復活」。それは、とても信じきれない出来事です。「ありえるわけがない!」という反発や戸惑いは人間として自然な反応でしょう。直弟子のトマスもそうだったのですから(ヨハネ20・24以下)。しかし「復活」は否定できても、一つだけ否定しようのない事実があります。それは弟子たちの上に起こった大変革です。十字架を前に主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちが、「あの方はほんとうに神の子であり、殺された墓の中から復活されたのです!」と、人々の前に自らをさらして公然と語り始めたという事実です。
たとえ「復活」がなかったとしても、主イエスに対する弟子たちの人間的な敬慕と信愛の情はいつまでも残り続けたことでしょう。けれども、弟子たちは従いきれなかった自分を責め続け、繰り返し涙に暮れたでしょうし、また「どんなに神の前に正しいことも、結局は権力と武力の前にねじ伏せられてしまうのだ」という虚しさが彼らの心を覆い続けたことでしょう。
「なぜ泣いているのか」。復活の主は、マリアをはじめ弟子たちの生きる方向を180度変革していきます。どんなに絶望的に暗く見える世界であったとしても、人間の抱えている歪みや腐れがどれほど世界を覆っているとしても、神の愛は人間の罪に勝利している。だから、神の愛に目を注いで生きる者は、決して失望に終わることはない。その希望にすくいとられて、お互いに愛し合う歩みを丁寧につむいでいく。復活の主がわたしたちの間に働き、聖霊の息吹が吹き込まれていく時、福音による新しい歩みが始まっていくのです。