「主の祈り」は心を込めて祈ろうとすると、「重たい祈り」です。
例えば、「主の祈り」の4番目の祈りの直訳はこうです。「わたしたちに必要なパンを、今日、わたしたちに与えてください。」(マタイ6・11)。
ここで祈られているのは「わたしのパン」ではなく、「わたしたちのパン」です。そして、この「わたしたち」は、わたしの家族・友人にとどまらず、主イエスが「わたしたち」と呼ばれた人たちであり、世界で今日、切実にパンを求めている人々を含めた「わたしたち」のことです。
ルカ福音書12章には、自分の畑が豊作だったので「もっと大きい蔵を建てよう。これから何年分も生きていくだけの蓄えができたぞ」と喜んだ人に、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」という神の言葉が記されています。「わたしのパン」のことしか考えず、「わたしたちのパン」を祈り求めようとしない生き方への厳しい問いかけです。
わたしたちにとってパンは切実な必要です。ですから、何とか「わたしのパン」を確保しようします。しかし一年分のパンは、わたしに一年分の寿命を保証してくれません。人はパンなしには生きられないけれど、パンは人に命を保証するものではないからです。人を生かすのは、造り主なる神です。パンを求める時に、まず今日わたしを生かす神の恵みと憐みを心に深く刻むこと。わたしを生かす神が「わたしたち」と呼ばれた隣人のことを思いめぐらしながら、「わたしたちに必要なパン」とは何かを考えること。その意味で、「主の祈り」はさらっと口ずさんでやり過ごすことのできない「重たい祈り」です。