「総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
(マタイによる福音書二七章二一~二三節/新共同訳)」
現在、小四の次男は、小学校からタブレットが貸し出され、授業だけでなく、帰宅後にも宿題や家庭学習に用いています。私自身の学生時代との違いに驚きと戸惑いを覚える一方で、インターネットに子ども達が触れる事に不安を感じています。特に、SNS等によるトラブルのニュースは日常の事柄となった現代において、人の感情が無加工のまま発せられた言葉に触れる事や、それを良しとしてしまう事に危機感を覚えるのです。
残念ながら、私たちの社会には、非対面の見知らぬ相手に対する誹謗中傷が溢れています。私はこれらの根幹にあるのは「被害者意識」の暴走だろうと想像するのです。つまり、「自分は被害を受けたから、加害者に報いる」との解釈に基づき、相手への加害を正当化しているという事です。そしてこの事は、主イエスの十字架の場面からも読み取れます。群衆は、自分勝手に主イエスに期待しながら、その期待に沿わなかった主イエスに対し、自分たちの期待を裏切った加害者として罰を与えようとしました。それ故に、「被害者意識」に飲み込まれない事は、私たちの大切な課題であると心に留めています。