巻頭言「関東大震災百年」加藤誠

 聖書が私たちに示す大切な視点の一つに「歴史から学ぶ」姿勢があります。人間は愚かにも同じ過ちを繰り返す存在であり、過去の史実に「今の自分たちの姿」を見出し、神の命の語りかけを聴いていく信仰を大切にしたいのです。

 今週九月一日は、関東大震災百年であると同時に、根拠なき流言飛語により六千人以上の朝鮮人が犠牲になった史実を心に刻む日です。震災翌日に内務省が「不逞鮮人の暴動計画」を理由に戒厳令を発令し、各地で「不逞鮮人(けしからぬ朝鮮人)」の検閲が行われ、軍隊、警察、自警団による虐殺行為が公然と行われました。しかし川崎では、朝鮮人労働者を雇っていた親方たちが彼らをかくまったり、新田神社では約百八十人の朝鮮人を保護し暴徒から守った記録が残っています。日頃から朝鮮人と付き合いのある親方たちはデマに動かされることなく、信念に基づいて群衆の暴力から「隣人」を守ったのでした。

 日本は一九一〇年に朝鮮半島を統治下に置き、「創氏改名」、「日本語使用」、「護国神社参拝」などを強要しましたが、その植民地支配に反発する人々を「不逞鮮人」と蔑視して憎悪すると同時に、「奴隷のように扱っている朝鮮人たちがいつ反発するかわからない」という不安と恐れが根拠なきデマの要因となったことが研究者たちにより指摘されています。当時のキリスト教会は、そのような朝鮮人蔑視の社会的風潮を容認し、震災下の朝鮮人虐殺にもほとんど関心を示すことがありませんでした(「関東大震災朝鮮人虐殺―その時教会は」星出卓也牧師:日本長老教会西武柳沢キリスト教会)。

 さて、今の私たちはどうなのでしょう。ネットやヘイトスピーチにあふれる「反日」という言葉は、植民地支配を顧みず「日本に敵愾心をもつ連中」という感覚で使われ、偏見と恐れを広げてはいないでしょうか。私たちは何を聖書から「福音」として聴き取っていくのでしょうか。