「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。…そして、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。
「地の果てに至るまで」とは、何とスケールの大きなビジョンでしょうか。それに対して、主イエスの前にいる弟子たちは「無学な普通の人」(4・13)に過ぎません。特別な能力も社会的肩書もない、ガリラヤ育ちで外国語の素養も持ち合わせていない。その彼らがどのようにして「地の果てに至るまで」出かけていけるのでしょうか。復活された主イエスが先頭に立って働いてくださるならまだしも、その主イエスは天に上げられてしまい、弟子たちは呆然と天を見つめるほかありませんでした。彼らは「自分たちでは何もできない」ことを身に染みて知っていたからです。しかし、その「何もできない者たち」を聖霊が持ち運んでいきます。弟子たちの力ではなく、聖霊の働きが出来事を起こしていくのです。種自身は飛べなくても、鳥についばまれた種が海を越えて持ち運ばれていくように。
ペンテコステの主日、「地の果てに至るまで」という約束を、大井教会のわたしたちに向けられた言葉として聴きたいのです。毎日、世界で起こる戦争や災害、戦後七十年を迎える日本を覆う深刻な問題を見つめるとき、「この小さな者たちに何が?」とつぶやきが生まれます。しかし、その「小ささ」を承知の上で主が思い描かれるビジョンは壮大です。ですから祈りを合わせたいのです。「主よ、あなたが世界に対して思い描き、わたしたちの上に見ておられるビジョンを、一緒に見る者にさせてください。大井町から世界に向けて、自らの小ささを承知の上で、しかしあなたの御名で大きく祈る者にさせてください」と。