マタイ18章19-20節には、二人の人が神様に祈り求めている様子が語られています。この二人は、どんな思いで祈っていたのでしょう。15節から読んでいく時、イメージが膨らみます。15節には、ある兄弟が罪を犯し、その兄弟に関わろうとしている人たちの様子が語られています。この人たちは、その兄弟に関わりながら、何とか兄弟が自分の過ちに気づき、罪を悔い改め、立ち帰るように忠告します。ですが、16,17節には繰り返し、「聞き入れなければ」と書かれています。一生懸命その兄弟に関わり、忠告するのですが、その兄弟は忠告を聞き入れようとしないのです。結果、その兄弟は、教会から離れ、「異邦人や徴税人と同様に」見なすしかなくなってしまいます。本日の御言葉で、神様に祈り求める二人の姿を思い浮かべる時、15節以降、散々、兄弟に関わりながら、それが徒労に終わってしまった様子を想像します。自分たちのできることの限界と行き詰まりを痛感しながら、がっかりしていたのではないでしょうか。しかし、その中で、心を一つにしながら、自分たちの思いを注ぎ出すように、主に祈り求めるのです。そんな人たちの願いや祈りを、イエス様は、受け止めてくださり、「わたしはその中にいる」と宣言してくださり、そこから御業を始めてくださることを約束してくれているのです。
東日本大震災が起こった時に福島県の郡山コスモス通りキリスト教会の牧師であったわたしは、この御言葉に何度も励まされてきました。震災では失望したり、行き詰ってしまうことばかりでした。そのような中で、とにかく、兄弟姉妹と祈ることから始めるしかありませんでした。しかし、そのようなところから、一つ一つのことが拓かれていく経験をさせられてきました。この御言葉は、私の中で「教会」を考える上での原点となる御言葉です。