決して縛れないもの   加藤 誠

この約二週間、大井教会の聖書日課はダニエル書でした。ダニエル書は紀元前六世紀、バビロン帝国に国を滅ぼされ強制移住させられた南ユダ王国の青年ダニエルの物語ですが、実際にこの書が著されたのは紀元二世紀と言われています。当時、セレウコス帝国の宗教迫害に苦しんでいたユダヤの人々が神のメッセージを聴き取るために、約四百年前のバビロン捕囚時代における先祖たちの闘いに自分たちの境遇を重ねながら物語にしたのでした。
歴史は形を変えながら繰り返すのです。人間の王は自らの権力を絶対化するために宗教を利用し、抵抗する者を見せしめにして恐怖で人心を支配する体制を求めます。その究極の目的は徴税と徴兵をおもうままにすることです。
バビロン王が建てた金の像を拝まなかったために、ダニエルたち三人のユダヤ青年は王の怒りを買い、燃え盛る炉に投げ込まれます。が、炉の炎の中を「四人の者」が自由に歩きまわる様子を見た王は、「あの三人は縛ったまま炉の中に投げ込んだはずではないか」「しかも、彼らと共にいる四人目の者は神の子のような姿をしている」と驚き、彼らを炉の中から出してその信仰を認めたのでした(ダニエル書3章)。人間の王がどれだけ恐怖で人々の心を縛ろうとしても、神への信仰を奪うことはできないのです。

わたしたちは今、歴史から何を聴き取り、自らの信仰をどうあらわしていくのでしょうか。八十年前のドイツに生きた一人の牧師の言葉をどう聞きますか。「ナチが共産主義者を攻撃した時、わたしは声をあげなかった。共産主義者ではなかったから。次に社会主義者そして労働組合を攻撃した時も。最後にナチが教会を攻撃した時、わたしのために声をあげる者は誰一人残ってなかった」。