神に愛され、名を呼び続けられて   加藤 誠

先週の召天者記念礼拝では、先に召された方々の名が一人ずつ呼ばれました。昨年まで一覧に名が記されていなかった友の名が呼ばれるのを聞いて胸が衝かれる思いを味わうと同時に、あのように一人ひとり名が呼ばれる大切さと有難さをしみじみ覚えました。あの一覧に名を記された人々の多くはイエス・キリストを救い主と告白した人々ですが、中には明確な応答のないまま亡くなった人もいます。が、その応答の仕方は違っていたとしても、神が愛し、名を呼び続けた一人であり、イエス・キリストが十字架において、その罪を裁きつつ赦しを宣言された一人であることには違いがありません。
「人は死んだ後、どうなるのか」という問いに対して、使徒パウロはこう語りました。「『だれが天に上るか』と言うな。これはキリストを十字架から引き降ろすことにほかならない。『だれが底なしの淵に下るか』と言うな。これは、キリストを死者の中から引き上げることになる」と(ローマ10章)。
この使徒パウロの言葉に沿うなら、例えば「告白せずに死んだ人はこうなる」と人間が断定することはできません。私たちは死後、「わたし(キリスト)があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という呼びかけの前に「あなたはどう生きたのか」を問われ、裁かれることになる。人の目に隠されていたこともすべて明るみに出されて問われる。が、同時に、どんなに救いがたい罪に沈んだ者をも、なお救い上げてくださる十字架の赦しと慈しみを知ることになる。これが聖書の使信であると、わたしは信じています。
神に愛され、名を呼び続けられている有難さを知った者たちが、「あなたも神に愛され、名を呼び続けられている喜び」を隣人に届けて手渡していく。ここに教会学校の働きがあります。