十数年前に妻をくも膜下出血で亡くした牧師の話を聞きました。
「わたしは預言者エゼキエルのように、妻を一瞬にして(一撃のもと)奪い取られました。義人ヨブは突然の天災で七人の息子と三人の娘を一瞬にして奪われた時、立ち上がり、衣を裂いて『わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな』と言いましたが、わたしは到底ヨブのように告白することも賛美することもできませんでした。ただ、亡妻がよく口にしていた『わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか』という、やはりこれもヨブの言葉は、抵抗なく受け入れることができました。他では経験しようのない深い悲しみから学んだこと。その第一は、愛する人との別離・不在にとって代わるものは何一つなく、別離と不在は埋めることのできない隔絶であり断絶であるということ。第二は、しかし、人間にはどうすることもできない、その隔絶と断絶を、罪人を義とされる神に委ねるとき、不思議にも感謝と賛美が与えられ、悲しみの涙が静かな喜びの涙に変えられていったのです」。
わたしたち人間は、死という現実の前には何の手出しもできない、一ミリたりともそれを動かすことのできない無力を突き付けられます。沸き起こってくるざんげと後悔をどこにもぶつけることのできない苦しみにもだえます。しかし、主イエスは十字架に向かう直前、弟子たちにこう宣言されました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。…その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16・20~21)。この方に、あなたのぶつけようのない思いをすべて委ねていいのだと、聖書は語っています。