巻頭言「K.Y.なイエスさま 広木 愛」

 イエスさまの姿を見ていると、十年以上前の新語・流行語に選ばれた「KY」という言葉が浮かんできます。このK.Y.という言葉を調べてみると、「空気が読めない、空気を読めよ!」という意味が有名になりましたが、「危険予知」の略語でもあるようです。そして、聖書には意外と空気を読めないK.Y.な人がたくさん出てきます。今日の香油をイエスさまのために持ってきたこの女性も、空気が読めない行動をした一人かもしれません。

 イエスさまのお誕生の際にも、マリアの状況を考えずに急に表れる天使。民衆が楽しそうにイエスさまのお話をきいている中で茶々をいれる人たちも、見方によっては、「空気が読めない」登場です。空気が読めないに加えて、自分たちの教えてきたこと大切にされていないという「危険予知」も加わっているように思います。どうしても、「まぁ、こんなことだから、別に神さまに忠実よりも、この場を収めるためには、作業効率のみよければいいや。」と都合の良い選択に流れてしまう自分がいます。

 香油を持ってきた女性は、年収に近い金額の高価な香油をイエスさまにささげることを選び取っています。空気が読めないイエスさま、そしてその周りにはいろんな空気が読めない人たちがいた。でも、その「空気が読めない」出来事が、わたしたちの聖書にはたくさん書かれています。その空気が読めないとも思える言葉に私たちは生きる力をもらい、励まされているのではないでしょうか。イエスさまの空気が読めない人生の最後は、十字架でした。イエスさまは、危険予知しなかったのかもしれないし、集団が作り出す空気は読まなかったのかもしれません。イエスさまの空気を一緒に分かち合い、神さまの空気を読むことができるK.Y.な私たちですごしていければと思います。