自由に、のびやかに   加藤 誠

 二日間の特別伝道集会、藤井秀一牧師が祈りを込めて「わたし」に語りかけてくださった福音を感謝します。藤井牧師という存在を通して「活ける水のしずく」がにじみ出て、乾いた心にしみこんでいくような思いがしたのはわたしだけではなかったと思います。

神の愛が一人ひとりに確かに注がれているのだというそのメッセージを聞きながら、一人の女性が次のように語る言葉に出会いました。

「私は19歳でクリスチャンになった時、自分の性格を変えなくてはならないと思いました。クリスチャンは物静かで、控えめな人だと思い込んでいたのです。私のように出しゃばりで騒々しい人間にとって、変わろうとすることは闘いでした。しかし、年齢を重ねて信仰的にも成長してくると、変える必要があったのは私の性格ではなく、神が私のために計画してくださった人生の新しい視点、焦点、そしてビジョンに気づくことだったのです。」

旧約聖書の「律法」は、神を信じて生きる者の「モデル」を指し示します。「信仰者ならこのように生きていくべきだ」と。しかし、それは一つのモデルにすぎない。神を愛し隣人を愛する生き方は、各々で違っていい。その人らしく愛をあらわしていけばいい。それが新約聖書の「福音」です。使徒パウロはその「福音」を携えて世界伝道に出て行きました(使徒13章以下)。ユダヤ人が大切にする「律法」が異邦人に強要される必要はない。イエス・キリストにあらわされた神の愛への感謝を、異邦人は異邦人らしくあらわしていけばいい。パウロたちが「勇敢に語った」(13・46、14・3)と訳されている言葉は「公然と、大胆に」という意味であり、それはキリストの恵みに支えられて「自由に、伸びやかに」生きる、彼らの信仰の姿そのものだったのです。