牢の中を照らす光   加藤 誠

 「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りがささげられていた」(使徒12・5)

 

 ヘロデ王が十二弟子の一人であるヤコブを打ち首にし、さらにペトロを捕えて監禁したとき、その牢獄を不思議な光が照らし出し、ペトロは救出されます。不思議な奇跡であり、映画にでもしたら痛快な筋書きになりそうです。

しかし、凡人であるわたしはつい考えます。主イエスが十字架で処刑される前にも、ヤコブが打ち首になる前にも、同じような奇跡が起こって救出されればよかったのに…と。ところが「そのとき」には起こらずに、「このとき」に不思議が起こる。つまり、神の奇跡は人間の側の信仰や祈りの熱心さで引き起こされるものではなく、あくまでも主なる神が「良し」とされる中で起こるものと知らされます。主イエスとヤコブの時にはペトロとは違う形で神の御旨がそこにあらわされたのであり、ペトロの場合にはこの救出によって神があらわそうとされた計画があったということなのでしょう。

 

第二次世界大戦中、ナチスに捕えられ処刑されたボンヘッファー牧師が牢獄から友人に宛てて送った手紙に、彼はこう書きました。「僕のことは心配いらない。この暗闇に主イエスが共にいてくださるから」。「ただ執成しの祈りはぜひ頼む」と。そして、こう祈るのです。「今日の一日、神に心を集中して祈れるようにさせてください」と。

 自分の願いを祈りで押し付ける前に、まず神にしっかりと心を向け集中してその御旨を尋ね求める。今日、その祈りをいただいていきたいのです。