巻頭言「愛と平和の神が共に 加藤 誠」

 あけぼの幼稚園の二月の暗唱聖句は「愛と平和の神があなたがたと共におられます」(第二コリント13・11)。ウクライナでの戦争に心痛めている年中の子どもが教師にポツリとこう言った。「この御言葉を世界中の人が知っていたら戦争は起こらないのにね」。

 ほんとうにそうだと思う。愛と平和の神が共におられることを知っている者は、避難する市民の列に砲弾を打ち込むことなどできるはずがないから。

 ルカ福音書六章の主イエスの「幸い/災い」宣言を次のように意訳してみた。

「貧しい者、飢えている者、泣いている者。愛と平和の神があなたがたと共におられる。わたし(イエス)が共に歩む。だから大丈夫。あなたがたは必ず満腹し、笑うようになる」。「自分だけ富み、自分だけ満腹し、自分だけ笑っている者。あなたがたはなんと悲しい存在か。なぜなら、今あなたがたが握りしめている富も、満腹も、笑いも、その手からあっという間に失われる時が来る。人にとって一番大切なものを知らないあなたがたは、なんと悲しい存在か」。

 ルカ福音書一二章の「愚かな金持ち」。なぜ彼は愚かなのか。手にした富に浮かれて「命は俺のもの!」と大きな勘違いをしてるから。富に頼り、富を握りしめている者は、隣人への優しさを忘れ、どんどん神の愛から離れていく。

 愛と平和の神が招くのはそれとは逆の生き方。命は神からのいただきもの。自分だけでなく隣人の幸せを思い、富を分かち合い、誰かの命とつながる生き方。そこに神に造られた人間の幸いがある。

「命は自分のもの/富を握りしめ/隣人を失う」生き方か。それとも「命はいただきもの/富を分かち合い/隣人とつながる」生き方か。「なんと悲しい存在か」という主イエスの厳しい問いかけは、今日のわたしに向けられている。