巻頭言「忘 加藤 誠」

 阪神淡路大震災から二七年。今年の一月一七日の神戸市東遊園地には三千本余りの灯籠で形づくられた「忘 1・17」の文字が浮かんだ。「忘」は公募で選ばれ「忘れてはいけない」との思いだけでなく「忘れてしまう」「忘れてしまいたい」などの声も込められたという新聞記事に考えさせられた。

 あれだけの大震災が起こり多くの犠牲者を出したことを「忘れてはいけない」し、なかったかのように風化させてはいけない。けれども震災で愛する家族を亡くした方々にとっては、愛する家族のことは「決して忘れない」けれど、胸を引き裂かれる痛みから解放され「忘れてしまいたい」出来事であり、その場合は「忘れられる」ことが救いになる。だとするなら大切なことは「何を」忘れずに記憶するか。その「何を」を考え続けていくことではないか。

 聖書を開くと「忘れてはいけないこと」を繰り返し想起し続けるために、人びとは石を積んで記念碑を建てたり、儀式として次の世代にも伝える工夫をした。その代表は「主の晩餐式」だろう。

 それぞれの人生においても「忘れてはいけないこと」がある。主なる神や家族、周囲の隣人から示された厚意や赦し、あるいは過去の失敗や罪など。十字架の主の赦しゆえに罪悪感に捕らわれ続ける必要はないにしても、私たちが神の愛と正しさに心と体をしっかり向けて歩んでいくために「忘れずに記憶し続けよ」と聖書は招いている。

 その十字架の主は、深い傷を負わされた出来事を「忘れたいのに忘れられない」苦しみに痛み続けている一人ひとりをその鎖から解放し癒すために、ご自身も苦しみの中に死なれ、復活の命の希望を見せてくださったのである。