「集 中」    加藤 誠

アウグスティヌスは、過ぎ去った過去を引きずり、いまだ来ない未来を空想して、現在なすべき決断を避けていたずらに時を過ごし、明日を思い煩ったりするのは、人間の精神の「分散」であると言いました。その反対に過去を悔い改め、感謝をもって想起し、未来を希望として先取りし、生き生きと現在を生きるなら、それは精神の「集中」であると言いました。

例えば、使徒言行録の弟子たちの姿は、まさに「集中」を生きているといってよいのではないか。そう思います。かつて主イエスを裏切り、見殺しにしてしまった、決定的破綻と汚名が刻まれた過去を彼らは背負っていました。また圧倒的な権力の脅迫と迫害が彼らの未来を阻んでいました。にもかかわらず、彼らは顔を上げて、実にしなやかに軽やかに今を歩んでいるのです。

一言で言えば、彼らが「イエス・キリストの名で立ち上がり、歩く」(使徒3・6)恵みを日々体験し、「この命の言葉を残らず告げる」(同5・20)使命に「集中」していたからだと思います。

 

明日21日、福島の郡山コスモス通り教会の牧師就任式を覚えたいのです。事故を起こした福島第一原発がまき散らす放射能のゆえに、人々の交わりは引き裂かれ続けてきました。特に子どもたちへの健康被害が心配され、その対応を巡って、家族の中でも意見が対立し、心を痛めてきたことを聞いています。学校でも教会でも親しい友だちが県外に転校していく。それを見送り、なお郡山に残り続ける子どもたちの心を思います。その地にあってイエス・キリストの恵みに「集中」し、未来を望み見て生きるとはどういうことなのか。首都圏に住むわたしたちがしっかりと聴くべき言葉がそこにあると思うのです。