巻頭言「見よ、主の日が来る 加藤 誠」

新しい礼拝堂の献堂感謝礼拝をはさんで、大井教会の聖書日課がゼカリヤ書であったことに不思議な導きを覚えている。

ゼカリヤは、バビロン捕囚から帰還した人びとがエルサレム神殿の再建に苦闘していた時期に、神さまからの励ましを届けた預言者である。捕囚から帰還したばかりの人びとは貧しさの中にあり、やっとの思いで完成させた神殿はソロモン王が建てた神殿に比べるとささやかなものだったが、ゼカリヤは日常の暮らしの真ん中に礼拝を大切にすることを熱く説いたのだった。

神殿は建物にすぎない、建物が整えられたら立派な礼拝が成立するのではない。ゼカリヤは最後の一四章で「見よ、主の日が来る」(14・1)と、「主の日の礼拝」の新しいイメージを示す。

「主の日」とは神さまの正義が地上に実現する日。「夕べになっても光がある」、どんな暗闇にも希望の灯が絶えることのない世界。世界中の至るところから、さまざまな困難と苦しみを克服した「残りの者」が賛美を携えて集まってくる。それまでの「聖と俗」の隔てが取り除かれ、ユダヤ人も異邦人も互いに「主に聖別されたもの」と銘が打たれて、皆が働き人として喜びの収穫に携わる礼拝。命の水を切に求める祈りの場であり、命のパンを分かち合う食卓の礼拝。そして地上で主と共に旅を続ける一人ひとりであることを心に刻む礼拝。

私たちの礼拝はゼカリヤが語ったような「主の日」を目指す礼拝となっているだろうか。御言葉によって日々祈りと賛美を新たにされる礼拝をささげていきたい。