今日から受難週。午後には2014年度定期総会が開かれます。企画推進チームから「『共に』教会を形づくる」という活動方針が昨年度に引き続いて提案されています。昨年の一年間、わたしは「共に」にどのように参加し、わたしの「共に」はどれだけ広げられ、深められたでしょうか。
わたしたちは「共に」という言葉を好んで使います。けれども、わたしの「包容力」や「忍耐」がいかに小さく貧しいことか。「あれは受け入れられない/許せない」というつぶやきを毎日のようにこぼす自分がいないでしょうか。わたしたち自身には「共に」を形づくる力はないのです。
ただ、そのようなわたしたちの中に「共に」が形づくられていくことを願い、主イエスはご自身をささげられました。この方の深い祈りに出会う時、わたしの「壁」が壊され、わたしの「共に」が広げられ、深められていきます。
主イエスは十字架上で「渇く」と言い、「成し遂げられた」と言って息を引き取られました(ヨハネ19・28、30)。何が「成し遂げられた」のでしょうか。兵士が槍でわき腹を刺すと、「血と水」が流れ出たとヨハネは報告しています(ヨハネ19・34)。「血と水」は主イエスが十字架上で味わわれた壮絶な苦しみをあらわすと同時に、この主イエスを通して注がれる「永遠の命」(6・54)と「霊」(7・39)をあらわします。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7・37)。自分の中に「渇き」を覚える者はだれでもいい。「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(6・57)。十字架のイエスを生かす神を信じる者は、死から命へ、闇から光へと移されるのです。