巻頭言「心の向きをかえて  ~よこしまな時代の中で~ 加藤 誠」

 主イエスの弟子たちはしばしば「だれが一番偉いのか?」という議論を交わしている。マタイ十八章でも「天の国ではいったいだれが偉いのですか?」という問いを主イエスに向けている。それは「神の目にはどのような弟子が最も喜ばれ、高い評価を受けるのですか?」という問いでもあった。

 ペトロたちが漁師だった時は「魚の群れを見極めて水揚げを多く得る漁師」がたたえられたことだろう。徴税人マタイの場合は「脱税を見逃さず厳しく税を取り立てる者」が評価されたことだろう。私たちの社会ではそのような評価が常についてまわる。その評価に心を縛られて一喜一憂し、時に「仕事上の評価」で自分の存在すべてが決定づけられるかのような錯覚に陥ったりもする。

 そのような弟子たちに、主イエスは一人の子どもを立たせて言われた。

「本当にわたしは君たちに言う。もし心の向きをかえて子供のようにならなければ、君たちは決して天の国にはいらないであろう」(マタイ18・3:岩隈直訳)。

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にゾシマ長老(ロシア正教の聖職者)という人物が登場する。かつて彼は将来を嘱望されたロシア軍の優秀な士官であり、そのふるまいは誇りと自信に満ちていた。が、あるとき自らの自尊心を傷つけられる出来事に激高し、帰宅するやいなや何の関係もない部下の従卒を殴り倒してしまう。翌朝、小鳥のさえずりと共に目が覚めた時、自分に黙って殴られた部下の姿を思い起こす中で、こんなに美しい世界の中でなんと醜悪に生きている自分であるかに気づかされる。ゾシマが部下のもとに行って赦しを乞うた時、彼の心の中に不思議な深い喜びがあふれ、世界がまったく違った輝きで見えてきたのだった。それは彼が「よこしまな人の思いがあふれる世界」にあって「天の国」を味わった瞬間だったのである。