先週9日の第二礼拝では「東日本大震災を覚えるリタニー(連祷)」という形で、主イエスの「幸い宣言」(マタイ5章)の言葉に小さな祈りを重ねながらわたしたちの祈りをあらわしました。
とてつもない被害の爪痕を目の当たりにし、復興への途方もない道のりを思う時、また汚染水が毎日あふれ続け、放射線限度量を超えた作業員たちが次々と去っていく原発事故の現場を直視する時、わたしたちの心は萎え、怒りやあきらめに呑み込まれてしまいそうです。しかし、今なお癒えることのない悲しみと枯れることのない涙の中を、主イエスご自身が今日も十字架を背負って歩んでくださっている。そして人々に「神の幸い」を届けるために働き続けておられる。この主イエスに目を注ぐとき、わたしたちに信じる心、望み続ける心、そして隣人に関わる力が届けられていきます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる…その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16・20、22)。
ありえない言葉です。不思議な言葉です。この直後、弟子たちの愛する主イエスはボロボロに辱めを受け、奪い去られてしまうのです。どんなにお金を積まれても、失われた命はもう帰っては来ない。深く傷つけられた心はもとには戻らない。これがわたしたちの生きている現実です。しかし、その現実を生きるわたしたちに主イエスは言われます。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16・24)。
いつも、どんな時も、この方を通して祈ることから始めましょう。祈ることしかできないわたしたち。けれど、祈りからすべては起こされていくのです。