二月二〇日に執り行われた大谷レニー先生の家族葬は、インフォーマルな形で、先生の賛美歌をみんなで歌ったり、家族各々がレニー先生との想い出を紹介したり、和やかであたたかな葬儀となった。進行役の大谷信道さん(唯信さんの長男)がこんなことを語られていた。「家族と言っても実際にはこんな時にしか顔を合わせられない。それぞれ知っているレニーさんはほんの一部分であって、お互いの話を聞くことで知らないレニーさんに触れることができる」。
「人を知る」とはどういうことだろう。同じ屋根の下で暮らしたり、同じ職場にいると、その人の行動の特性や癖のようなものは分かってくるけれど、その心の内に秘められた思いはほとんど理解できていないことが多い。それに家と職場とでは「まったく違う人」の場合もよくあることで、家族は当人の学校や職場での姿をほとんど知らなかったりするものだ。
私たち一人ひとりのことをほんとうに知っておられるのは神さまのみ。神さまはわたしの裏も表もすべてを知ったうえで、祈ってくださっている方。
マタイ一六章で主イエスが、それまで心の奥底で祈ってきたこと—―迫害され殺されるメシアとしての道—―を弟子たちに打ち明けた時、ペトロは驚き、猛反発した。「神の子であるメシアが人々から捨てられ迫害されるようなことがあってはならない!」と考えたから。しかしペトロが主イエスについて知っているのはほんの一部分であり、主イエスの真意もその闘いもペトロには見えていなかったのだ。「サタンよ、引き下がれ!」。ペトロの一番弟子としてのプライドを粉々に打ち砕く主イエスの厳しい叱責の言葉。しかしこの叱責の言葉からペトロのほんとうの信仰の歩みが始まったのではないだろうか。信仰とは、神の御心と対極にいる自分を突きつけられるところから始まるのだ。