もう一つの道    加藤 誠

ある教会員の方から興味深い話を聴きました。

戦争中、九州の祖父母の田舎に疎開していた時のこと。東京から転校した彼女は、服装も違い言葉もまったく通じない環境になかなかなじめませんでした。学校の行き帰りには小石を手にした上級生の男の子が待ち伏せして彼女をからかう。「わたし、もう学校には行かない!」と祖母に訴えたのですが、祖母はいつものように弁当を彼女に持たせて言ったそうです。「その子たちに会ったら、一番いい笑顔で『昨日はどうもありがとう!』と大声で言いなさい。いいかい、笑顔で、大声でだよ」と。「そんなことできるわけないじゃない!」と思いつつ、学校の行き道になんとか勇気を振り絞って祖母に言われた通りにした。お昼休み、運動場の隅であの上級生たちが大勢の仲間とたむろしている。「どうしよう!」。ところが、上級のお姉さんたちが来てこう言ったのです。「あなた、東京から来た子でしょ。大丈夫よ。あの男の子たちが、あなたにはもう手を出すなって、他の男の子たちに言い聞かせているだけだから…」。

 

自分には「もうこの道しか残されてない!」と思えたり、世の中の多くの人が「これしかない!」と言う時に、「もう一つの道」を指し示してくれる人の存在の大切さを思います。聖書には、主イエスがさまざまな場面で「もう一つの道」を示された姿が描かれています。例えば主イエスはエルサレムに入る際、「ロバの子に乗る」(ヨハネ12・14)という、当時の人々から見たら「決してありえない」「最低に格好の悪い姿」を選ばれました。しかし、その「もう一つの道」こそ、わたしたちの間に真の平和をつくり出す道だったのです。世の中が「一つの考え」「一つの雰囲気」に染まりやすくなっている昨今、主イエスが生きられた「もう一つの道」の豊かな可能性を聖書に聴いてゆきたいのです。