この人を見よ、この人こそ   加藤 誠

「旧約」に生きる人々は長い間「救い主」の出現を待ち続けてきました。預言者たちが語った「希望」・「平和」・「喜び」をもたらす「救い主」が神によって必ず立てられるときが来る、と。

しかし、実際に立てられた「救い主」は、彼らが待ち望んできた「救い主」のイメージをまったく逸脱した男でした。ダビデの血筋であってもナザレ村の大工の息子にすぎず、正式なラビ養成教育を受けていない怪しい男。安息日の戒めを軽々と破り、律法学者や長老たちの権威を鋭く批判する危険な男。その振る舞いと語る言葉に心を魅了されて喝采を送った人たちも、最期には十字架でなすすべなく惨めに処刑されていった姿に深く失望し、「預言者」ではあったとしても、それ以上の人物ではなかったと考えたのでした。

 

ところが、そこに「あの十字架で殺されていった男こそ、神が私たちのために派遣された救い主だ」、「あの男こそ、神の存在と言葉をまるごと生きたインマヌエルの主だ」と告白する人々が出現します。「キリスト者」と呼ばれる人々でした。「イエスこそキリスト(救い主)」と告白して一歩も譲らない彼らもまた「無学な、ただの人たち」(使徒4・13)と軽んじられますが、イエスによって彼らの心に種火のように植えつけられた「神の愛」が、聖霊の息吹によって燃やされて、「無学な、ただの人たち」の間で野火のように広がっていき、やがて世界中で分かち合われていったのでした。

このイエスという男が、自分の命をすべてささげて体現されたのが「神の愛」です。神に背き続ける人間をなお赦し、神のもとに立ち帰ることを祈り続ける愛。見返りを求めることなく、徹底して無償で注がれ続ける愛。この愛に結びつけられる時、人は真に生きるべき命、真の幸いに招き入れられるのです。