「神さま、おはようございます。今日、起き上がる力をいただけてありがとうございます。…どうぞこれからの日をまた少しでも神さまの御用ができますように。力を与えまた足腰を支えていただいて、少しでも御用ができますように、あなたの強いお支えを心からお願いいたします。大井の皆さんも、川越の皆さんも、神さまの愛の中で支えられてよき生涯を生きていかれますようにお守りください。…アーメン。」
日常的介護を必要とする母が朝食前にささげた祈り。認知的な課題も多くなっている母が「神さまの御用ができますように」と重ねて祈り願う姿に考えさせられる。母の中では「神さまの御用」こそが彼女の最も深い喜びなのだ、と。
多くの私たちにとっては「自分のやりたいことの実現」こそが最上の喜びではないか。けれども聖書は言う。「神さまの御用をさせていただくことにこそ、他の何にも代えがたい深い喜びがある」と。
ジャクリーヌ・ド・デッカーという女性がいる。マザー・テレサと共に働きたいと献身しベルギーからインドにわたった人だ。けれども難病のために帰国を余儀なくされ、何度も手術を受けベッドから動けない体となり彼女は涙した。そのジャクリーヌにマザーは言った。「私たちの働きのために祈ってほしい。あなたのように自らに苦難を背負っている人の祈りほど尊く力強い祈りはない。私たちはあなたの祈りを必要としている」と。ノーベル平和賞の受章式に、マザーはジャクリーヌを壇上に招き、「彼女は『第二のわたし』です」と人々に紹介した。「彼女の祈りなしに、今日のわたしはありません」と。たとえ身体的な自由がきかなくなったとしても、私たちは「神さまの御用」に参加する道が備えられている。そして、それは「最上の喜びのわざ」なのだ。