この世が与える「平和」ではなく
加藤 誠
主イエスは、この世が与えるものではない「わたしの平和」を与えると約束されました(ヨハネ14・27)。この世は、自分に脅威を与える「敵」からいかに自分を守るかという発想で「平和」を確保しようとします。そこでは「見える力」が頼りです。それに対して、主イエスは自分に向かう「敵」が神の前に無力であることを見極め(「だが、彼はわたしをどうすることもできない」ヨハネ14・30)、「見えない力」(聖霊)への信頼によって開かれていく「平和」を示されました。死から命を、無から有を、絶望から希望を創造される方への信頼は、繰り返し「見える力」を頼る自分を捨てる闘いでもあります。
また、この世が志向する「平和」が人と人との力関係(競争)で成り立つ以上、いつひっくり返るかわからない不安を抱えた「平和」であるのに対して、イエスが指し示す「平和」は、私たち人間の罪を正しく裁き、救われる神への信頼と聴従が繰り返し求められていく「平和」です。
1945年8月15日の敗戦を通して、日本は何を学んだのか。
敗戦後、日本政府は憲法改正を目指して憲法問題調査会を設置しますが、天皇中心の国家体制(国体)を手放すことはできませんでした。あれだけ未曾有の国家的悲劇、アジア諸国への犠牲を経験しても、なお自分たちの思想と歴史を根本的に批判し、それまでの国のあり方を捨てる勇気がなかったのです。この世の権力を持つ側が自らの真実の姿に気づき、自ら覚醒し変革していくことは不可能であることを示す一例でしょう。では、この世を変革し「平和」に導く言葉を託されているのは誰か。それはこの世の権力から不当にも命を脅かされ、十字架に追いやられている人々にあります。ただし、その言葉が「見える力」に頼るものではなく、「見えない力」に頼るものであるときに。