だから、わたしも働く! 加藤 誠

 ベトザタの池は、エルサレム神殿の北側に隣接した貯水池で、二つの四角形の池が隣接し、周囲が美しい柱廊(高さ8・5m)で囲まれていました。もともと巡礼者の沐浴用で男性と女性用に分かれていたようですが、癒しの効能が信仰されるようになり、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(ヨハネ5・3)といいます。
 「いったいどんな光景だったのだろう」と想像するとき、心が痛みます。池の水が動いた時、真っ先に池に入った人だけが癒されて、他の人々は蹴落とされていく。横たわっている人々の間には競争とねたみ、ひがみが交錯していたことでしょう。すぐ隣のエルサレム神殿には、その病気ゆえに入堂することも禁じられていた人々。社会的にも宗教的にも差別を受け、底辺に追いやられていた人々の間でさらなる競争が強いられていく。救いのない世界がここに象徴されています。その世界に三十八年間放置され続け、最も深い孤立を覚えていた男に、主イエスのまなざしは注がれ、神の癒しが宣言されたのでした。
 しかし、その日が安息日だったゆえに、ユダヤ人たちが激しい非難を浴びせると主イエスは答えます。「わたしの父が今も働き続けている。だから、わたしも働くのだ!」(私訳5・17)。そうやって主イエスは、ユダヤ人たちが絶対化していた安息日の戒律を軽々と相対化してみせたのでした。
 アフガニスタンで働く中村哲医師は「心の豊かさとは、大切にすべきこととそうでないものとの順序をつけられること」と言います。主イエスの心には父なる神のまなざしと働きが見えていました。神の御心を生きることにおいてブレない。だから人間の思いが錯綜する世界にあって軽やかに自由に行動できる。
 「父が今も働き続けている」。大井教会のわたしたちが「だから!」と、自分たちの行動の根拠をいつもはっきり指し示すことができますように。