でっち上げの冤罪で監獄に投げ込まれたヨセフ(創世記三九章)。ここで「監獄」と訳された言葉は、三七章でヨセフが兄たちに投げ込まれた「穴」と同じ言葉です。つまりヨセフは自分の力では這い上がることが不可能な「穴」に二度も落とし込まれたのでした。しかし、その「穴」が「新しい出会い」と「新しい扉」に変えられていくのですから、神さまの持ち運びは不思議です。
たださすがに冤罪での投獄は心を砕かれる辛い出来事だったようです。「わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られ…、ここでも牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです」(創世記40・15)と訴える言葉に彼の本音がにじみ出ています。なぜ自分がこの「深い穴」に落とされたのか、心の奥底では納得できていないわけです。ふつうなら自分を陥れた人々に恨みつらみを向けてもおかしくないところです。
しかし監獄の中でのヨセフの言動を見ていると、どこか前向きで明るさを感じます。監獄で自分に与えられた仕事ににこやかに忠実に仕え、人びとから信頼を寄せられている姿が浮かんできます。自分が投げ込まれた「穴」の中に共に歩んでくださる主を、ヨセフが見出していたからでしょう。
信仰の歩みは「百パーセント感謝、賛美」とはいかない。心の奥底に「なんで?どうして?」という思いを抱えながらも、共なる主に慰められ、励まされながら歩む道。落とし込まれた「穴」に「新しい出会い」を備えたもう神の導きに期待していく道。人びとが「もうこれで、おしまい」とうつむく場所を、「これで、終わらない。ここから始まる!」と顔をあげて歩みだす場所に変えてくださる復活の主に従っていく道なのです。