兄たちの憎しみを買い、奴隷として売り渡され、エジプトに連れてこられたヨセフ。父ヤコブのもとでは「長袖の上等な服」を着せられて「おぼっちゃま」として自分の語ることが何でも通っていたヨセフでしたが、エジプトでは「奴隷の服」を着せられて一切の口答えを封じられる理不尽を味わい、たくさんの苦労を重ねることになります。「奴隷の服」を着ている限りはどんな「真実」を語っても、誰からも相手にされず抹殺されてしまうのです。
人間の社会では「着ている服」がものを言います。今から約四千年前の時代ですから、「着ている服」(身分)がその人の人生をほぼ決定づけたと言っても過言ではないでしょう。
ヨセフは王の役人ポティファルの家で忠実に主人に仕えましたが、主人の妻の命令に逆らったために「奴隷の服」さえはぎ取られ、「囚人の服」を着せられて投獄の憂き目にあいます(創世記三九章)。
しかし、この場面での一連のヨセフの行動を見ていると、外側に「着ている服」には左右されない「心の装い」、つまり「神とのつながり」をしっかり身に着けていく様子を感じます。ヨセフは「長袖の上等な服」の前にうやうやしくひれ伏す人が「奴隷の服」や「囚人の服」の前では尊大にふるまうという、「着ている服」の違いで態度を変える人間の罪の実相をまざまざと体験したことでしょう。しかし、そのような人間の罪に埋もれることなく、「神とのつながり」を大切にする「心の装い」をヨセフは身に着けていくのです。
「ヨセフはこうして監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施した」(創世記39・20~21)。