和解の主が引き起す「事件」としての「共に」 加藤 誠

本日の定期総会に、二〇一三年度の大井教会活動方針案が企画推進委員会によって提案されます。私は最後の二回の会議に陪席しただけですが、企画推進のメンバーたちが大井教会のこれからの歩みを真剣に考え、納得いくまで粘り強く論議を重ねている姿に頭がさがりました。
主題 「共に」教会を形づくる(エフェソ2章17~22節)
「共に」には、あえて鍵カッコがつけられました。
私たちはよく「共に生きる」とか「共に歩む」という表現で、理想を描きだします。が、人と人とが「共に」、同じ思いになって、一つの祈りを共有し、呼吸を合わせて何かを成し遂げていくということは容易ではありません。いや、「不可能だ!」というのが聖書の証言です。主イエスの弟子たちの現実がそれをあらわしています。イエスという強力なリーダーをいただきながら、裏切者を出し、抜け駆けする者がおり、陰口をたたいて足を引っ張り合う、実に情けない姿を露呈しています。私たち人間の「共に」は破たんしており、私たちの知恵や優しさでは、「共に」を作りだすことはとてもできません。
では、いったいどこで「共に」が可能になるのか。それは人間の罪を背負い、敵意を滅ぼし、隔ての壁を壊す「和解の主」においてです。この方においてのみ、個性豊かに、バラバラに、あっちこっちを向いている私たちが和解に導かれ、「一つ」にされていくのです。また、「和解の主」が形づくる「共に」は、外国人や寄留者(エフェソ2・19)という、ユダヤ人から見たら「想定外」の人々を交わりに招き入れ、「共に」を広げ、豊かにしていきます。キリストの教会づくりは「事件」と呼んでもよいほどに、私が揺さぶられ、突き動かされ、それまでの認識をひっくり返されていく出来事なのです。「和解の主」が引き起こされる「事件」に大いに期待して歩み出していきましょう。