私たちは誰もが、神の光の前にさらけ出すことのできない闇を抱えています。取り返しのつかない罪過であったり、やましい思いであったり、嫉妬や憤り、憎しみであったり。ユダヤ教は、「律法」(旧約聖書の戒め)を守り、善い業を積むことによって、それらの闇を帳消しにできると教えました。
しかし使徒パウロは、人間の抱える闇はあまりに深く、「律法」を完全に守るなど不可能であり、十字架のキリストにあらわされた神の深い愛と憐れみだけが人間の深い闇を解決しうる。信仰とは、「人間の修行や努力」ではなく、十字架の神の愛を「ひたすら受けていくこと」だと理解しました。ですから「人間の修行や努力」を称える考え方には断固として反対したのです。それは「キリストの死を無意味にすることだ」(ガラテヤ2・21)と。
「人間の修行や努力」が称えられるところでは、信仰は「ガンバリズム」に陥ります。他者と自分を比較し「自分はできている」「あいつはできていない」とおごりや高ぶり、さげすみが生まれます。それに対し、キリストの十字架のもとで自らの抱える闇の深さ、貧しい愛を見つめ、神の愛と助けを祈り求めるところでは、「神さま、ありがとうございます」という感謝に始まり、足りない部分をけなすのではなく、分かち合い、補い合う祈りが生まれていきます。
キリスト者は、このキリストの恵みに始まった「新しい時」を感謝と喜びをもって生きます。「西暦」では紀元後を「A.D.」と書きますが、これはラテン語の「アノ・ドミニ」(主の年)であり、キリストの恵みに照らされた「新しい時」を意味します。罪ある人間が呼び名をつける「暦」に支配されるのではなく、主の恵みに照らされ、主と共に歩む「主の年」を大切に刻んでいきたいのです。