「聖書は、この世で生きることの痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りを身にしみて知る、貧しく小さくされた者の視座から語られたもの、痛みと苦しみに敏感な神の感性に、共振する人々によって語られ、執筆されたものなのです。パウロの手紙も例外ではありません。…キリストの側に立ったために社会的な場をすべて奪われ、『世のゴミ、みんなのカスあつかい』(第一コリント4・13)されるようになったパウロによって書かれた手紙であることを忘れてはなりません」(本田哲郎『パウロの「獄中書簡」』)。
パウロは、ユダヤ社会のエリート街道をまっしぐらに歩んできた人でしたが、反体制派の「ナザレのイエス派」に転向したために弾圧排除を受け、何度も投獄されて死にかかります。しかし、そのように小さく貧しくされた体験を通して、パウロはキリストの恵みをより深く知る者とされるのです。神は十字架のキリストにご自身をあらわされ、この世界の一番低みに生きて働いておられること。その神に激しく反抗してきた自分のような者も十字架の恵みに包まれ、キリストと一体化させていただいているのだと。それゆえ、パウロにとって「生きる」とは「十字架のキリストの恵みを生きる」ことに他なりませんでした。
「わたしはこのキリストのゆえに、そのすべてを無駄にしてしまいました。でも、それらのことはこちらからお払い箱だと思っています。キリストを自分のものにすることができ、また、キリストと一体のものとなれるのだからです。…そのためにこそ、わたしはキリスト・イエスにしっかりと抱きとめられているのです。」(本田哲郎『フィリピの人々への手紙』3・8、12)