見える履歴、見えない履歴    加藤 誠

昨年末からの一年間で、日本バプテスト連盟の現役の牧師や神学校の教師が四名、天に召されました。いずれの先生も、各々与えられた仕事に全力で取り組んでいる最中に、「人の子よ、帰れ」と神のみもとに召されたのでした。

 千葉教会のY牧師は、ご夫妻で地域伝道に力を注ぎ、礼拝出席者も増え、クリスマスに三名の受浸予定者が待つ中での逝去でした。東海教会のS牧師は念願の教会組織を果たし、今秋の連盟総会で加盟審議を待つ中での急逝でした。西南学院大学神学部のA教授は、カール・バルトの気鋭の研究者として翻訳に取り組む道半ばで、郡山コスモス通り教会のK牧師は東日本大震災以降、全身全霊で支援に取り組み、被災地の教会に寄り添う中での逝去でした。いずれの先生も、人間的には「志半ば」での死と表現されるのかもしれません。葬儀で配られる信仰履歴には「〇〇年、〇〇教会の牧師に就任」など、いわゆる「見える履歴」が記されていました。しかし、このたびK牧師の葬儀に出席しながら、それら「見える履歴」は、神さまの前ではほとんど意味がないのではないか…と思えて仕方ありませんでした。

 K牧師がイエス・キリストに捕えられて、約四十年をキリストと共に歩んだ足跡に刻まれたもの。それは「どんな時にも、みことばをぎゅっと握りしめた歩み」でした。「みことば」は聖書の言葉であり、神さまの語りかけとして受け取った言葉のこと。「みことばから、こう示されたから」、「このみことばをいただいたから」。どんな時も全力で神を愛し、人を愛し、辛い時も、喜びの時も「みことばを握りしめて歩んだ人生」。それは他人の目には「見えない履歴」です。けれども神のまなざしの中に何よりも大切に覚えられている「履歴」。それ以外に必要なものがあるだろうかと改めて心に刻みつけられた葬儀でした。