先週は祝福されたイースター礼拝を多くの方々と共にできたことを心から感謝します。合同聖歌隊のハレルヤ・コーラスは素晴らしいハーモニーでしたし、手話賛美の持つメッセージ性に目が開かれました。第一礼拝の証しも、第二礼拝のハンドベル、ヴァイオリン、聖歌隊、ピアノ、オルガン…。それぞれの奉仕がキリストの福音を受けた喜びにあふれていました。自分を指し示すのではなく、十字架の主を指し示す奉仕としてささげられたと感じます。
ただ、近くのスーパーで使われていた「イースター祭り」のシールがすっかり付け替えられてしまったように、イースターを「お祭り化」して片付けてしまうことなく、あの礼拝に共にあずかった私たちは、どこに向かって歩みだすように復活の主から招かれているのかを、よくよく考えたいのです。
マルコ福音書は「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16・7)という言葉で終わっています。ガリラヤは、弟子たちの住み慣れた故郷であり、主イエスと出会い、一緒に活動した場所です。生きることに苦悩する多くの人々と出会う中で、主イエスの語る神の国の福音に心揺さぶられ、慰めをもらった場所です。そのガリラヤに「復活の主は先に行っている」とはどういうことなのか。
今朝、次のような約束として聴いてみたいと思うのです。「主イエスはガリラヤで、さまざまな苦悩を抱えて生きる一人ひとりを愛し、かかわりを大切にされた。今日もその人々の間に復活の主は先に行って働いておられる。だから、あなたがたもその一人とのかかわりを大切に生きなさい。そのとき、あなたがたは共に働く主イエスを見出し、神の国の福音を豊かに受ける!」と。