主イエスは「赦されざる者」というレッテルを貼られ、ユダヤ教指導者たちから激しい非難を浴びました。最大の罪状は、ユダヤ教徒が命を賭けて厳守してきた「安息日の冒涜」です。主イエスは安息日に禁じられた癒しを堂々と行いました。「重い病いや障がいは神の裁きだ!」と教えてきた指導者たちの面前で、病人たちに「あなたは神に赦されている!」と、まるで神になり代わって宣言し癒していった行為は、決して赦されてはならない「神への冒涜」と受け止められ、そのために「あいつは汚れた霊にとりつかれた、悪霊の親玉だ」という誹謗中傷が主イエスに向けられたのです。
不思議なことです。人を病や苦しみから解放する善い働きが、悪魔呼ばわりされ罵倒されていく。ここに人間の抱えている深い罪が示されています。
先日、米国のフロリダで起こった銃乱射事件を体験し生き残った高校生たちが銃規制を訴えて大統領に面談した直後から、誹謗中傷が寄せられていると聞き衝撃を受けました。「雇われた役者!」「犠牲者の役を演じる偽物の生徒!」と激しいバッシングが向けられ、高校生の一人が「僕は偽物ではない。事件を目撃し、それを一生背負って生きなければならない生存者の一人だ」と涙ながらに語ったとも報じている記事を読みながら、「そうか。主イエスが受けたのも、この誹謗中傷だったのだ」と重なりました。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3・28~29)。主イエスが誹謗中傷を受けながら闘った「聖霊を冒涜する罪」とはどういう罪なのでしょう。それを今朝、聖書から聴きたいのです。