祈り  加藤 誠

 二〇一八年の新しい年を主の御手からいただきました。元旦から数日、澄みきった青空にあたたかな冬の陽ざしがあふれ穏やかな気持ちが広がります。しかし、同じ空の下で厳しい課題と向かい合っている人たち、重い病を歩んでいる人たちがいることを思います。ふと、数年前の沖縄慰霊の日に小学三年の増田健流くんが読み上げた「空はつながっている」の詩が思い出されました。

 

ぼくのお気に入りの場所/みどり色のしばふに ごろんとねころぶと/そよそよとふく風がぼくをやさしくなでる(中略)青あおと広がるやさしい空/でも/遠くの空の下では 今でもせんそうをしている国があるんだって/ばくだんが次つぎとおとされ なきさけびにげまわる人たち/学校にも行けない 友だちにも会えない 家族もばらばら/はい色のかなしい空/空はつながっているのに どうしてかな/どこまでが平和で どこからがせんそうなんだろう/どうしたら せんそうのない/どこまでも続く青い空になれるのかな(後略)

 

「どこまでが平和で、どこからが戦争なんだろう」。この小学生の問いに、私たちはどう答えますか。昨年「〇〇ファースト」という言葉があふれました。「ないがしろにされてきた人の思いを大切にする」という意味では共感します。が、「すでに力を持っている人たちがさらに自分の権利を主張する」という意味に「どこかで」すり替えられていく時、それは「暴力」があふれる世界を肯定する言葉となります。私たちは、その「どこかで」をきちんと見分け批判できなければなりません。パウロの次の言葉が響きます。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリピ1・9―10)。