「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し…双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現されました」(エフェソ2・14~15)。
新約聖書の実に多くの証言が「真の和解と平和」を創り出し、今も私たちの間で「平和の灯」を灯し続けているキリストを語っているのですが、次の箇所だけはまったく真逆の内容が語られています。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ12・51.並行マタイ10・34)。
マタイでは「剣をもたらし、敵対させるために来た」とも記されていますから、ますます戸惑うばかりです。いったいどういう意味なのでしょうか。
二つのことに注目したいと思います。一つは、その直前に主イエスが「わたしが来たのは、地上に火を投じるためである」(12・49)と語っている点です。ルカ福音書では、バプテスマのヨハネが「その方(イエス)は、聖霊と火でバプテスマをお授けになる」(3・16)と預言しています。聖書で「火」とは神の裁きと清めを意味します。わたしたちが真に「キリストの平和」に創り変えられていくためには、聖霊と火のバプテスマにどっぷり浸かり、古き自分に死にキリストにあって新たにされる厳しいプロセスを要するということです。
二つ目に、「分裂」という言葉は、ペンテコステの火に聖霊の炎が弟子たちの上に「分かれ分かれ」に留まったという言葉と同じである点です。私たちにとっては「分裂」に見えることが、神の目から見ると一人ひとりが自立し、世界に広がる福音の多様性を獲得していく大切な「分かれ分かれ」でもあるのです。