名を呼ばれ、招かれて   加藤 誠

3月16日に行われたあけぼの幼稚園の卒業式。檀上で一人ひとりの名が呼ばれ、胸を張って「ハイ」と返事をする子どもたち。その「ハイ」という返事の仕方にそれぞれの個性が見えてほほえましく感じ、胸が熱くなりました。もしこれが「規律正しさと画一的美しさ」を求める幼稚園なら、どの子も同じような「立派な返事」を仕込まれるのでしょうが、一人ひとりが思いを込めて精一杯返事をする姿にその子の個性が見えて、豊かで大切な場面を感じたのです。

それにしても「名が呼ばれる」ということは、なんと大切なことでしょうか。そして、その人への思いを込め、祈りを込めて、「名を呼ぶ人がいる」ということは、なんとうれしいことでしょうか。

 

「天の国は…息子のために婚宴を催す王と同じだ」(マタイ22・2、私訳)。

神の愛は、私たちを喜びの婚宴に招く王の招待と同じだというのです。当時の人々にとって王子の婚宴は最上級の食卓を味わう最高の喜びでした。通常、婚宴の招待は二回にわたったそうです。一回目は婚宴そのものへの招き、二回目は日時を知らせる招き。財産家の婚宴の場合、入り口で礼服が配られたとも言いますから、至れり尽せりの招待です。ところが、その招待に応じない人々がいたために王の憤りがあふれたという、何とも後味の悪い「たとえ」です。

この「たとえ」の中心は、神の喜びの招待に「あなたはどう応えるか?」という問いかけでしょう。求められている「礼服」とは何をあらわしているのか。「キリストを着ること?」、「喜びや感謝を着ること?」、それとも…。

この受難節、キリストにおいて示された神の喜びの婚宴に、名を呼ばれ、招かれている幸いを、どんな「礼服」をもってあらわしていきますか。