神の網は良い魚だらけ?    加藤 誠

今年の受難節は、主イエスの「天の国のたとえ」に続けて聴いています。主イエスの周りには農夫や漁師たちがたくさん集まってきていたのでしょう。彼らに身近な題材をもちいて語られる主イエスのたとえに、「なるほど!」と膝を打ちながら聞き入った人々の姿が目に浮かんでくるようです。

先週の第一礼拝の応答カードに次の質問が記されていました。「マタイ十三章より。毒麦は火で焼かれる。悪い者は投げ捨てられる。燃え盛る炉に投げ込む。共存するのではなく捨てるのでしょうか?」。

マタイ十三章の「毒麦のたとえ」と「網の中の魚のたとえ」では確かに、「世の終わりに悪いものは投げ捨てられ、燃え盛る炉の中に投げ込まれる」と繰り返し語られています。厳しい容赦ない言葉です。いわゆる「最後の審判」を語ったものですが、「彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」という言葉に少なからず戸惑いを覚えます。主イエスは愛の方のはずではないですか。これらの厳しい裁きの言葉と神の愛とはいったいどのように結びつくのでしょうか。

主イエスは愛の方ですが、今のわたしたちや世界の状況を「全肯定」しているわけではありません。神を畏れず、互いに憎み合い、強者が弱者の命を奪っている状況を「そのままでいいよ」とおっしゃっていない。「主の祈り」で「神の御心が地の上に実現しますように」と祈るということは、わたしたちの中の「神への不信仰」や「愛のない悲惨」は刈り取られ、焼き捨てられる必要があるということです。ただし、「Aさんは正しくて、Bさんは悪い」というように、一人ひとりを〇×クイズの「正解」「間違い」のように分けられない。「その基準は神さまだけがご存知」と主イエスは語られました(マタイ二十五章など)。「裁き」であると同時に「愛」である、神の不思議な働きがそこにあるのです。