「エステル記における礼拝」に聴きます。
舞台は紀元前五世紀のペルシャ帝国。当時のペルシャは、インドからアフリカにおよぶ広大な世界帝国であり、王は神と等しい存在でした。その王の身勝手な要求を拒否した王妃ワシュティの勇気は驚愕に値します(エステル記一章)。王妃といえど王の「所有物」にすぎず、もし王の命令を拒んだならば、命も保障されなかったのですから。権力を持つ側は自らの歪みに鈍感ですが、権力を持たない側にはその歪みが良く見えるのです。
このペルシャ帝国内に離散して住むユダヤ人たちがいました。バビロン帝国の滅亡と同時に多くの人々が故郷に帰還した一方で、エステルや養父モルデカイのように、なお異国の地に留まり続けなければならない人々もいたのです。しかし少数民族のゆえに、いわれのない憎しみを受け迫害の対象とされます。そのような過酷な現実をどう生きていくのか。「自分がこの時代に生かされている意味」を神に尋ね求めながら、信仰において決断し行動する人々を描いだのが「エステル記」です。
特にモルデカイが王妃になったエステルに「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と厳しく問い、エステルが「すべてのユダヤ人を集め、わたしのために三日三晩断食してください」と語って、死を覚悟の上で王に会う決意を固める場面は緊迫感にあふれています(同四章)。
自国第一主義が声高に語られ、離散して生きなければならない人々の存在が悪のように見なされる時代に、キリスト教会は「自分たちが生かされている意味」をどのように聴き取っていくのか。そこに礼拝の意味があります。