あなたがたも生きるようになる   加藤 誠

日本では人が亡くなると一般的に「ご冥福をお祈りします」と挨拶します。「冥」は「くらい、やみ」であり、仏教の「冥土」(死者の霊魂が行く暗黒の世界)ですから、「冥福を祈る」とは「死後、迷わず幸せであるように」と祈ることです。また「ご愁傷様です」もよく使われますが、「愁傷」とは「嘆き悲しむこと」であり、遺族の深い悲しみをおもんばかっての挨拶の言葉と言えます。

 では、キリスト教ではどのように考えるのでしょうか。

 死後の世界をどう理解するのか。「くらい、やみ」であり「死者が迷い込むところ」なのか。聖書の信仰では、死の現実の中にもイエス・キリストは生きておられるのであり、キリストの恵みの及ばないところはないと考えます。

とはいえ親しい者の死はやはり悲しくつらいものです。悲しい時には涙していい。主イエスも親しくしていたラザロが死んだ時、涙しました(ヨハネ1135)。しかし同時に主イエスは「あなたがたの悲しみは喜びに変わる!」とも言われました(同1620)。悲しみと涙で終わらない。神は復活の命をあらわしてくださる。これがキリスト教の信仰です。ですからキリスト教の葬儀では、悲しみと同時に、神が備えたもう復活の希望に目を向けていくのです。

 ただ、巷でよく使われる「天国でまた会いましょう」という言葉については、よくよく考えてみたいのです。もしわたしたちが地上での関係そのままに天国で再会したらどうなるでしょう。敵対し、憎み合っている者同士がそのまま天国でも再会したならば、地上での争いが天国にそのまま持ち込まれることにならないでしょうか。天国とは「神の愛の支配するところ」ですが、わたしたちは、イエス・キリストの十字架を通して「神にふさわしく新しく変えられなければ!」ならない。わたしたちは十字架の赦しを必要とする者なのです。