「ぶどう園・共に育ち合う場所で」   恵泉バプテスト教会協力牧師  松見 享子

本日、敬愛する大井教会の皆さまと共に礼拝をささげ、午後には教会学校研修会で、共に学ぶ機会をいただくことを心から感謝します。

私たちバプテストは、聖職者によってではなく、聖霊の導きのもとで信徒ひとりひとりが聖書を読み、それを解き明かすこと、祈祷書で定められた言葉ではなく、自分の言葉で祈りをささげることへの希求から始まった群れです。自分の言葉で信仰を告白し、祈り、自ら聖書を読み説く喜びを、文字通り命をかけて取り戻した最初のバプテストは、迫害のただ中で、わざわざ一つのところに集まり、共にみ言葉を分かち合い、礼拝をささげ続けました。一人で聖書を読み、祈る自由を手に入れたのに、なぜ彼らは、そして私たちは、共に礼拝し、共に聖書を読むことを選ぶ(選んだ)のでしょうか。

本日の研修会のテーマに、マタイによる福音書二十章「ぶどう園の労働者のたとえ」を掲げました。この労働者たちは、主人と出会った時間も、働いた時間も、それぞれ違います。主人は、違いをもつ彼らを自ら同じ場所に招き、共に働く者とさせました。違いは時々葛藤を生むものです。それでもそのままなら、お互いの違いを気に留めることもなく終わったかもしれません。ところが、一日の終わりに発せられた「常識はずれ」の主人の言葉、ふるまいによって、彼らは否応なく、そんな主人と、今日共に働いた他者をまじまじと見つめることになります。そこに大きな葛藤や混乱が生じたことは容易に想像ができます。

 

イエスさまが、「天の国」をそのように、違いを持つ者が共に働く場所としてだけでなく、葛藤や混乱が引き起こされる場所として描かれたことを不思議に思います。本日はその意味を、皆さんとご一緒に考えてみたいのです。