「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア書 六章六節/新共同訳)」
イスラエルの民は、モーセの時代に神が授けた律法に従って、人が罪を犯すたびに、赦しを得る代価として、人以外の動物の命を犠牲として献げてきました。そのような歴史の積み重ねによって、いつの間にか民の心は、自らの利益の為に他者に犠牲を強いる事に対して疑問を感じなくなっていたのではないかと、私は想像します。そしてこの感覚は、宗教的な点に留まらず、日常生活においても他者の犠牲に鈍感になり、常態化させてきたのではないでしょうか。
現代社会を見ても、「犠牲なき社会」を目指しているとは思えない、様々な事柄に溢れています。「戦争」はその典型例ですが、ここ数年で世界的に再度の拡がりを見せている「原発」もまた、犠牲を必要とするシステムです。北海道でも、核廃棄物処理の目途が立たない中で、泊原発の再稼働の計画が進められています。
「物事を為すには犠牲はつきもの」と言われる事がありますが、神はそれを否定しています。その神によって世に遣わされた主イエスは、十字架にかかり、全てを担ってくださいました。それ故に私は、あらゆる場面において犠牲の必要性を肯定せず、「犠牲なき社会」を、隣人と共に実現したいと願っています。そして、十字架と復活の主イエスに応えて、神の喜ばれる愛をもって互いに愛しあい、神による平和の完成を祈り求めます。