ギリシャのアテネは学問と芸術が栄えた町であり、ソクラテスやプラトンなどの偉大な哲学者を生み出した町です。そのアテネでのパウロの伝道は一般に「失敗だった」と評されます。パウロの語る福音を信じる者は幾人かにとどまり、教会が生まれなかったからです。しかし、そこに教会が生まれたら「成功」で、生まれなかったら「失敗」なのでしょうか。
アテネの人々の関心を的確にとらえて何とかキリストを伝えようとするパウロの姿に、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない者には持たない者のようになった。何とかして何人かを救うために。福音のためなら、わたしはどんなことでもする」(第一コリント9・20以下)というパウロの熱いパッションを覚えます。確かに、その場で信仰に導かれた者は多くなかったのかもしれない。しかし、このアテネでのパウロの説教は、旧約聖書から救い主を論証する説教よりも、現代の私たちにはずっと伝わるものがある。二千年の時を超えて、神はパウロの説教を用いておられると思うからです。
一つは、すべてを造られた神は、私たち人間が考えるイメージや枠の中にはまったく収まらない、スケールの大きな方だということ。私たちの手の中に神がいるのではなく、神の大きな慈しみの中に私たちは生かされていること。
二つ目に、その神から私たちは問われている。愛なる神を受け入れて生きるのか、それとも愛なる神に背を向けて生きるのか、どちらを選ぶのかと。
パウロが語る、キリストの「正しい裁き」(使徒17・31)とはどのような裁きなのか。すべての人の罪を「赦しつつ、裁く」とはどういうものなのか。