愛神愛隣   加藤 誠

今朝は「レビ記の礼拝と実践」に聴きます。

出エジプト記はイスラエルの人々が「幕屋」(礼拝所)を完成させた場面で終わり、続くレビ記には、神がその「幕屋」でモーセに語ったさまざまな戒めがまとめられています。新約の福音に生きる者にとって、レビ記に記された儀式上の戒めはほとんど意味を感じられません。しかし、じっくり読むと、旧約の人々がどれほど神への畏敬を大切に自分たちの暮らしのすみずみに徹底させようとしていたかを教えられるのです。

主イエスはこのレビ記を大胆に解釈します。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」(マタイ9・13)。「けがれ」を忌み嫌い「きよめ」を強調する戒めはバッサリと切り捨てる一方、レビ記十九章の「愛神愛隣」の倫理を大切に実践されました。主イエスはレビ記が「けがれている」と断罪し排除した異教徒、障がい者、ハンセン病者、悪霊にとり付かれたと思われている人たちを「神に愛されている大切な隣人」として出会っていきます。そして「すべての食べ物は清められる」、「人から出てくるものこそ、人をけがす」(マルコ7・14以下)と語り、人間が抱えている「罪」こそ「きよめられるべきもの」と示されたのです。

 

新約に生きるわたしたちは、レビ記の細々とした戒めに縛られずに、自由に神を礼拝することがゆるされています。ただ「あなたがたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリ10・31)とパウロが語ったように、「今日のわたしの自由な選びが神に栄光を現すものとなりますように」という祈りを大切にしていきたいのです。