「中心」に神の言葉を   加藤 誠

今朝は「出エジプト記における礼拝・幕屋」に聴きます。

出エジプト記の前半は、モーセに率いられたイスラエルの人々がエジプトから「大脱出」するドラマが描かれ、後半は、解放の恵みにあずかった彼らが「十戒」という神の戒めを受け取り、その神を日々礼拝するための「幕屋建設」に取り組む様子が描かれます。

奴隷だったイスラエルはエジプトの支配から解放されて自由を味わいます。しかし、自由ほど難しいものはありません。自由がただ欲望と結びつくと、自由はその人自身を食いつくし、他者を傷つけるものとなるからです。それは新約聖書で使徒パウロが書いている通りです。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)。

 

この自由を適切に扱うためには、自分たちの「中心」に主なる神の言葉が必要であり、他者(特に自分より弱い者たち)への慈しみが大切であることをイスラエルの人々は学びます。彼らは神を礼拝するための「幕屋」(テント)を十二部族の隊列の「中心」に建て、朝夕に神への献げものをささげることを始めるのです。神の言葉はいつでもどこでも聴くことができますが、人間は弱いゆえに、礼拝の場所を確保し、時間をきちんと決めないと、神の言葉を自分の暮らしの中に響かせることができないからです。

「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる」(出エジプト29・45)。わたしたちのただ中に住まうと言われる神を暮らしの真ん中に迎えるために。わたしたちは何を整えますか。