はじめてキリスト教の礼拝に触れた方が戸惑われるのは「祈り」かもしれません。目に見えない、そこにいるかどうか分からないものに向かって「祈る」。「祈り」は不思議な行為です。聖書を読んだり賛美歌を歌うことは信仰がなくても可能ですが、「祈り」は信仰がないとできません。信仰とは「祈り」を学び、体得していくことだと言っても過言ではないと思います。
フィリピ教会の愛する人々に使徒パウロが書き送った手紙には「祈り」についての大切な勧めが記されています。フィリピ教会の人々は宣教の働きを共によく担っていましたが、メンバー同士の間ですれ違いやぶつかり合いがあったようです。教会はいわゆる「仲良しグループ」ではありません。主に呼び集められた一人ひとりですから、ふつうなら「仲良くできないお互い」が一緒に祈るよう招かれている交わり。それが教会です。だから人間的にぶつかり合うことが起こるのは当然といえば当然のことです。
パウロはその手紙の四章で「主にあって固く立ち」「主にあって同じことを思い」「主において喜びなさい」と、三度「主にあって」という言葉を重ねています。「主にあって」とは英語では「in Lord」「in Christ」、つまり「主キリストの愛と恵みの中に身を置いて」。バプテスマはキリストの命の中に沈められること。であるなら「祈り」は「私たちを包んでいるキリストの愛と恵みの中にすっぽりと自分を置くこと」。主の愛と恵みの「中に」にしっかりと自分を置き、主の思いを受け、喜びをいただいていく時、同じ主の愛と恵みの中に招かれている「友」が見えてくるということでしょう。そこにスチュワードシップ(神の賜物の善き管理者)としての「祈り」があるのです。